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2007年04月

野外練兵場

 師団練兵場で歩40旅団司令部、歩78、歩79、騎28、野砲26、工20、輜重隊、衛戌病院全部が使用していた。

 中央が広い広場で、、西側に広大な朝鮮総督府、第二十師団司令部があり、無線電信塔が高く聳えていた。 中央の広い広場で、一月八日酷寒骨を削る朔風をついて、陸軍始の観兵式があり、二十師団の全将兵が軍旗を先頭に歩武堂々の分列行進をした。剣先のひらめき、勇ましいラッパの響きは広い練兵場に轟き渡り、氷を踏む軍靴の音は、皇軍日本の輝かしい前進であった。

 南山の麓が黄鶴洞、李泰院の高地、なまこ山、幾千とも知らぬまんじゅう墓地のある無名祠の高地、その南がバラバラ松の高地、西氷庫から漢江川を渡って汝矣島の砂原へと、南北四キロ東西八キロにも及ぶ大練兵場であった。

 重い背嚢を負って二キロもある汝矣島の砂原を走る時は足が抜けるようであった。

軍律は落伍許さず汝矣島の
熱砂を兵らひたに走れる

なまこ山、無名祠の高地、バラバラ松の高地

 幾百の兵隊が雨の日も風の日も、突撃の喊声をあげて赤土の山を馳け上がる、「今のは不成功」と叱られて又麓に下り眼をつりあげ、血の出る程の断末魔の声をあげて馳せ上る、「よし成功」とお告げがあってほっとする。

突撃の声ふりしぼり馳せのぼる
兵倒れたり  酷暑の丘に

 私も一星半をこの練兵場で練えに練えられた。そして色々なことを体験した。

 苦しい思いを慰めてくれるものは小さな野生のカーネイシヨンと白い野菊であった。ある時は苦痛の絶頂に、ある時は限りない悲哀に涙をこぼした。

 かくて胸深く彫まれたことは「祖国日本を愛する兵の涙ぐましい努力と、自己を愛しむ悲しい笑い」であった。

永登浦

今日は仲秋の日で農家は休みと見えて、子供達は黄、赤、緑の晴着を着て庭でギコトンをして遊んでいる。

ま黄なる鮮服姿や鞦韆に
裾なひかせし鯵少女を思う

鞦韆
ブランコ

 若者は縁側にうららかな秋の陽をうけて、笛を楽しんでいる。今年は豊作と見えて、田んぼには黄金の波がただよっている。

韓国の民謡聞けぱ若人の
トラジ唄いし面影うかぶ

漢江河原

漢江河原

 広い汝矣島の砂原に続いて大漢江が悠々と流れている。川向うが桃山、それから南大門から上った長城が畝うねと北に走っている。 

                          

 今日は午後から夜にかけて前晴哨の訓練である。「敵は天安、鳥致院に宿営している、その斥候がこちらの状況を探りに、あちこちに出没している」。

 茜に染った夕日は西に落ちて物静かな夜の帳がおろされた。

陣営の夕暮楽し飯合の
蓋ふきあげて重湯こぼるる

 夕食の飯合炊さん、副食は魚の罐詰で参った。

 ヨボ(朝鮮)の部落のすぐ上を天安に通ずる道路が通っており、私はその鞍部の歩唱であった。

秋深き夜半の歩哨に吾が立てば 砧(きぬた)の音のことことと遠し  仲秋の明月はもう高く昇って、どこからともなく笛の音が聞こえ、アリランを唄う声がもの悲しく聞えてくる。

アリラン アリラン アラリリヨウ
アリラン コウゲル ノモカンダ
ナルル ポリゴ カシヌニンム
シムニド  モツカソ パーピヨナンダ

妾をすててアリランとうげを越えて行く人は 一里もゆかずに足が痛む。

模疑夜間演習

模擬夜間演習

 昭和六年満州事変が勃発して皇軍は満州に征戦を進めている、本年二月には上海事変が起り爆弾三勇士を生んだ。

 国民の軍事意識を高揚すると共に、近代戦の様相を認識させる為め、竜山師団練兵場で模疑夜間演習が行われた。

 私はこの演習に統監部通信兵として参加したので、全般の状況がわかって面白かった。

 敵はなまこ山に頑強な陣地を構築しており、友軍は練兵場を隔てて西部無線電台の森中に攻撃準備を整え日没を待っている。

 月のない真闇の夜だった。友軍は日没とともに練兵場に出て展開した。練兵場の半まで進出した時説明用の照明弾が打ち.上げられた。敵陣の様子、接敵する部隊の配置等が、昼をあざむく照明弾下に手にとる様にわかった。

 西側並びに南北両高地には近代戦を見んものと、遠く水原、仁川あたりからも来て数万の群衆が鈴なりになって、固唾を呑んで説明を聞いている。

 照明弾は消えて又闇の夜にもどった。時折銃声が聞える、友軍の斥候を敵の歩哨が射ったのであろう。

 部隊は葡匐前進して、三ケ班の鉄条網破壊班が出された。敵は照明弾をあげて鉄条綱破壊班を射撃する、友軍の機関銃、擲弾筒が敵の機関銃を制圧する。友軍の支援下に突撃路は開かれた。

 照明弾は消えた、ひとしきり友軍砲兵の支援射撃があって、敵陣の潰乱に乗じて友軍が突入して白兵戦を演じた。

 男たちには夏の夜の涼みを兼ねて流飲の下りる見ものであったが、婦人の中には異国の土地に野末の露と消えてゆく兵隊さんが可愛そうだと泣くものもあった。

南鮮全羅北道、全州、任実面

 営庭で、練兵場で練りに練った戦技を実戦に生かす為に、毎年秋季演習が行われる。

 昭和六年九月二十一日、南鮮全羅北道、全州に到着一泊、敵となる部隊はその日のうちに出発して南進した。

 明けて、二十二日早朝、一番初めに斥侯を出す、その次に尖兵―尖兵中隊―前衛―本隊の縦隊で前進する。

 午後になって敵情がはっきりすると攻撃計劃が立てられ命令が下達された。

 聯隊長や聯隊付は馬の上で、命令受領者は歩きながら筆記する。

 命令が下達されると、砲兵は砂塵をあげて途中部隊を追越して前方に進出し砲列をしく、続いて本隊は展開して、夕方砲兵の制圧下に歩兵が前進し、敵陣に突込んで本日の基本戦闘を終った。

 この演習に私は本科初年兵として参加した、常日頃通信でさぼっている自分、それに日頃は空背嚢であるが、秋季演習になると、米・罐詰・着替被服・兵器手入具・飯合には飯が詰っており、背嚢の目方は三十キロからあり十里の行軍ですっかりへこたれてしまった。

 途中から足に血豆が出来て痛くてたまらなかった。任実面という小さな部落に泊った。

昭和六年九月二十三日 遭遇戦

 敵は麗水から北上しつつある歩兵第八十聯隊である。両軍との間に小高い丘陵がある、どちらが早くこの丘を取るかが勝負の岐れ路。 尖兵の一班は軽機関銃をもって、走るに走る、午前中走り続けて先ずこの丘の上に機関銃一挺を据えつけた。機関銃挺よく一ヶ聯隊の前進を食い止めると言れた、後続部隊も急進中である、両軍激突して戦闘を終った。

 南原の清水惣太郎さんという農家に宿泊する。

 清水さんは大正の初めこの地に移住され、今では広い田んぼをもっておられ、子供さんも皆この地で生たのであると。

 北鮮には竹薮はないが南鮮には竹もあり柿もあり、内地と何ら変りはない。朝鮮の米は大理石のように白くて、とてもおいしい。

 南原は秀吉の第二次朝鮮征伐(慶長の役)の時この地で大激戦が行われ、朝鮮側では一万人の犠牲者を出した。

 朝鮮ではこの役を王辰倭乱と言い、この役で大活躍をした李瞬臣将軍は鮮内至る処に顕忠祠があり、軍神として祀られている。

 戦後この地南原に「万人義塚」が建設せられ民衆は敬けんな心で拝んでおり、滅私奉公の護国精神を養っている。

          

 日本では太閣秀吉を、一百姓から天下をとった偉物としてあがめているが、朝鮮人に言わしむれば、日本に文字を伝えたのも、仏教文化を伝えたのも、外敵に対する築城を指導したのも総て朝鮮である。

 古えの奈良の都の人口の半数は朝鮮人だったという。今日関東にも関西にも到る所に高麗町百済駅などという地名が残っている。実に日本の文化は懸って朝鮮人によって拓かれた。

 然るに秀吉は朝鮮を攻めた恩を仇で返した野蛮人であるとののしっている。

昭和六年九月二十四日 飛鴻峠

 大きな大きな峠、飛鴻峠にさしかった、登れども登れども山又山、正午やつと頂上に達した。山は大変な岩山である、この岩山には昔虎がすんでいたと聞く。加藤清正の虎退治の武勇伝は蓋しこのあたりのものではあるまいか。

 峠を下ったところに川があって舟で渡った。兵隊は皆水筒を川につけて水を飲んだ。その夜は古里院の河岸で露営、夜間演習であった。

吾が青春の兵なりし日よ古里院の
露営に聞きしアリラン哀歌
秋の夜の更けて冷たし寂として
虫の音ひとつ聞くこともなし

昭和六年九月二十七日 淳昌面

淳昌宿営
淳昌面
淳昌面洗濯の風景

淳昌宿営

 淳昌面という部落で一日休養。

 小学校では全部日本語を教えているので、兵隊には朝鮮語は教えてない。

 「チヤンムリ トツシヨ」と言ってオモニに水筒を渡した、水筒には醤油が入れられて戻された。

屋根ひくく南瓜の
つるの這いあがり
黄色きうまが
軒にさがるも

おしなべていづこの家にも
秋陽照る屋根に
ま赤き唐辛子燃ゆ

 「水だ」 かめの水を指して見せると

 「ムリ、ムリ(水)ガツソヨ チャラアミダ」(わかりました)

 お父さんお母さんが好意をもって兵隊のことを聞きたがるのだが言葉が通じない。

 張貞玉という小学六年のキチベイ(娘)さんがいて通釈をしてくれた。

 ご飯を炊いてくれたり、洗たくをして下さったり、涙ぐましい献身ぶりであった。

 張貞玉さんは帰営してから ずうっと手紙をくれていたが。何時しか絶えてしまった。

なでしこの野辺に咲けりとふみくれし
        かの日の少女如何になりしや

 綺麗なお嬢さんがおられたので家族一同とともに記念写真を撮ろうということになったが、肝心の嫁さんはとうとう仲にはいってくれなかった。聞くところによると既婚の女性は絶対に他の男性と親しそうな行動があってはならぬという風習だそうな。

 昨日行軍の途中、老婆がむろ蓋に栗を入れて道路端にちょこりんと蹲っている。

 「その栗兵隊さんにくれるのか」

 「売るんだ」人通りもあまりないのに、

 「売れなかったらどうする」

 「私が食べる」

昭和六年九月二十八日 単陽、二十九日 光州に一泊。

統監部

統監部

 つい三ヶ月前、満州万宝山で朝鮮人農民が支那軍に虐殺されており、満州事変が起きて今日で十日目、朝鮮人の兵隊さんに寄せる期待はまことに大きかった。

 朝鮮の青少年は兵隊になりたくて仕方ないが、まだ兵隊に服する道はなかった。

 ただし家柄がはっきりしており、思想堅固なものは幼年学校、士官学校に入学を許された。在鮮部隊には李少佐、劉大尉、金大尉など鮮系の将校さんが沢山おられた。

 鮮系の将校さんは演習で労れているにも拘らず部落民を集め「これが軽機関銃と言うもので一分間に弾が六〇〇発出る」と得意になって軍事熱をあおっておられた。

 民衆は「あれがヨボ衆(鮮系)の兵隊さん」と神様を拝むように目を皿にして聞いていた。

李少佐
李応俊将軍は朝鮮の幼年学校から日本の士官学校に進まれた方で、韓国独立後は軍の重鎮として、大韓民国参謀総長を務めておられた。今は御歳で退いておられるが、昭和五十四年現在なお御健在と聞く。劉升烈大尉については最近の消息はわからない。

連続終夜演習

昼夜連続演習

十分間休憩

 松汀里から井邑を経て裡里まで三日間は連続終夜演習であった。

 二日も寝ないで行軍すると歩きながら眠る。前が停るとガチ、ガチ、ガチっと将棋倒しに前の人の飯盒をかじって怒られる。

         

 十分間休憩と言われると、道踏わきに処かまわず、ひっくり返って寝た。もっとも機関銃や砲兵、輜重兵はその間に馬に水をやらねばならず、休憩というものはなかった。

 夜は絶対に前の人から離れてはならぬと言われても、何時の間にか前の兵隊がいなくなって、あわてて、そこらの部隊の後についてゆく、夜が明けて見ると、他な部隊の後について行軍していた笑話もある。

通信班長として (昭和七年秋季演習)

 翌昭和七年、この年の秋期演習は中部朝鮮漢江川南方、清州、鳥致院、平沢、安城、水原、永登浦一帯で行われた。

 既に私も二年兵で兵長をしており、通信班長としてこの演習に参加した。

 私は第一構成班長で、宮村上等兵、前川二等兵、小林、大森、中山の初年兵、馬取扱兵の田原茂二等兵、それに素敵に格好の良い軍馬一頭と電話器二箇、五〇〇米巻線四巻をもらった。

 本演習が吾吾通信兵が二年間練えに練えた檜舞台である。

 重野中尉という頭脳優秀な通信隊長がついていて、歩兵七十九聯隊の通信と言えば、朝鮮部隊でも有名なものであった。

 支隊対抗戦に、追撃戦、退却戦に、聯隊本部から前衛大隊へ、聯隊本部から旅団へ、師団へ電話を懸けめぐった。

 追撃戦はまだよいとしても、退却行では本隊側は線を伸してゆくが、最後尾は器材を敵に渡す理にはゆかぬ、息もつかせず走りながら電話線を撤収した。

安城の渡し (昭和七年秋季演習)

 昭和七年秋季演習中に安城の渡しを夜間渡河した。

 夕方から大休止で腹を詰めて、午後十時南端の都賀里を出発した。

 今は一面の田んほであるが、実は大湿地である。今夜の演習に限り、単独行動は一切禁じられた。前の兵から絶対離れてはならぬと言われた。

 この平野には蜘蛛の巣のように川が入り乱れ、然もその川は底知れぬどぶ川である。道を迷うとどこを行っているか、さっばりわからなくなる。

 内地と違って十月初旬とはいえ霜おく寒い夜であった。今夜は月のない真っくら闇である。恐ろしい程薄気味悪い、いかにも人の命を吸い込みそうな川にさしかかった。

 暗夜の中に高い一本橋が懸って為り、それを渡った、馬は通せないので河の中を渡らせる。やっと渡ったと思った時、馬がぬかるみに足をとられて動けなくなった、荷物をおろして皆で馬を引きあげた。

 そうこうしている内にとり残されてしまった。このぬかるみを通過するのに五時間かかった。

 明けがた前方がうすうす見える頃大きな川を渡った。川向うに小高い丘があり、大きな石碑が建っている。

安城の渡し

一 渡るにやすき安城の 名は徒のものなるか
    敵の射ちだす弾丸に 波は怒りて水さわぎ
二 沸きたちかえる紅の 血潮の外に道もなく
    先峰たりし我が軍の 苦戦の程ぞ知られたる
三 この時一人のラツパ手は 取り佩く太刀の束の間の
    進め進めと吹きしきる 進軍ラツバの勇ましさ
四 その音忽ちうち絶えて 再びかすかに聞えたり
    打ち絶えたりしは何故ぞ かすかに鳴りしは何故ぞ
五 弾丸のんどを貫けど 熱血気管にあふるれど
    ラツバは放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
六 魂とその身は砕けても  霊魂天をかけめぐり
    なお敵軍を破るらん あな勇ましのラッパ手よ

 眼下に安城の渡しが一望にして見える小高い丘に大きな石碑が建って為り、碑面には「陸軍喇叭手 木口小平碑」と刻まれている、又この丘には松永中隊が全減に遭った記念碑も建っている。

 日清戦争といえば中国で戦争したのだろうと思いがちであるが、明治二十七年春、南鮮全州に東学党が蜂起反乱し、朝鮮政府では手に負えなくなった。予て属国していた清国がこれを平定手中に納めようと明治二十七年六月九日 清国軍を牙山に上陸せしめた。

 朝鮮は独立国である、中国の勢力が南鮮に及ぶとたまったものではないと、日本は六月十二日、先遣隊を仁川に上陸せしめた。

 六月二十五白昼間偵察した情報では安城川は徒渉出来ると見て、夜陰に乗じて渡河攻撃を開始したところ、予期せざる満潮にあい、松永中隊全員河中にぬかるみ、丘上から一斎射撃をうけ中隊は全減した。

 その節の木口小平ラツパ手の奮戦ぶりである。

 日清戦争の緒戦に当り安城の渡しは軍歌として全国を風靡した。

 日清戦争は明時二十七年七月二十五日豊島沖海戦を経て八月一日宣戦布告と進展した。

 豊島はすぐ仁川の沖合である。

軍旗祭 (四月十八日)

軍旗祭

軍旗祭

 軍旗は聖上陛下よりその聯隊に下賜されたもので、その聯隊のシンボルであり命にかけて守るものである。北清事変、日清日露戦役、シベリア出兵、第一次世界大戦(日独戦争)に出陣した軍旗は中味を砲弾に錆ち抜かれ縁総だけになっているものも少くなかった。

 我が歩兵第七十九聯隊の軍旗祭は四月十八日春たけなわにして桜花らん漫であった。

 午前中式典用の一装軍服に身を調え、壱千五百の将兵が営庭に並ぶ、式典に先だち今日の来賓が迎えられた。今日の来賓は、

  • 歩兵第四十旅団長 少将 宮沢 浩 閣下
  • 第二十師団長   中将 室 兼次 閣下
  • 朝鮮総督     大将 宇垣一成 閣下
  • 朝鮮軍司令官   大将 林洗十郎 閣下

である。師団長までは式典前に聯隊に来ておられた。朝鮮総督と朝鮮軍司令官は整列して迎えた。

 将官ともなれぱその都度ラッパが奏せられて華かなものである。

 一っ時あって、衛兵に守られて軍旗が台上に上り、聯隊長の勅語、並びに奉答文が奉読された。

勅語

  • 歩兵第七十九聯隊ノ為軍旗一旒ヲ授ク、汝軍人等協力同心益々威武ヲ宣揚シテ我カ帝国ヲ保護セヨ。

奉答文

  • 敬ミテ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ竭シ誓ツテ国家ヲ保護セン。

大正四年四月十八日

余興

余興(私しのラバさん)

 奉読が終ると軍旗に対し捧げ銃の敬礼、続いて勇ましい分列行進が行われた。

 内地の部隊と違い朝鮮部隊は日頃面会人は殆んどない、御用商人の外ははいれない軍隊であるが、この日ばかりは一般市民の観覧が許され、多数の市民が来観した。

 式典後数々の余興が出た、その頃ハーモニカの全盛時武で裸の兵隊達が白い敷布を肩にかけ「私のラバさん酋長の娘」を踊る一隊、その他仮装行列などがあり、一方では満州事変勃発翌年のことで兵器の説明会が催された、その頃の歩兵部隊にはまだ砲はなく、重機関銃、鄭弾筒くらいなものであったが、空包射撃を黒山を築いて見ていた。

 一方中隊では年に一度お酒がたら腹飲めるので昼食が楽しみである。私らの年には赤飯に何かお魚がついたように思う。年によってお頭がついたり、紅白の祝饅頭がついたりするという。

 朝の洗面がすむと「各班の洗面器を事務室に持ってこい」と週番の声が飛ぶ。その頃の洗面器は真鍮製であった。軍紀厳しい軍隊であるが、この日ばかりは無礼講でお酒が飲めるので、翌日顔を洗おうと思うと皆あながあいているということだ。

 夕方から吐く者、下げる者、便所かよいの列がつづく。

酒の出る軍旗祭なり 洗面器
たたいて歌えりまつ黒けのけ

 そんな時に限って何かがある。前年軍旗祭の翌朝未明非常呼集がかけられ、軍装して師団練兵場まで駆足させられたと。

平康里野営 昭和七年五月十二日-二十日

二年兵第一期の
検閲は平康里で受けた。
最前線最右翼の兵が吾。

通信班長重野中尉を囲みて。

中村構成班長を中心に。

 ここは江原道福鶏駅に程近い平康里の高原である。ソウルから日本海岸元山に抜ける鉄道の朝鮮山脈を越す一番高いところである。

通信隊長重野誠雄中尉

  • 一生忘れ得ざる人格者よ、この高原に咲く鈴蘭のように、心優しい愛情、引締まった凛々しい顔、兄弟橋の下を流れる水のように澄みきった美声、明密な頭脳、実に通信隊長として全朝鮮軍に範たるものであった。

 京城はとっくに桜が散って初夏であるのに、この高原は今桜の花盛り、高原一面に鈴蘭が薫っていた。

北鮮に春は来にけり五月半
桜も咲けり鈴蘭咲けり

 平康里に兵舎があり、通信班には演習地に近い典仲里の宿舎が当てられた。

 私は二年兵第一期の検閲をこの演習場で受けた。苦しいこともあったが、大部分は通信班として聯隊本部から演習場へ、部隊から第一線への電話架設、撤収に明け暮れた。

 聯隊全部の通信兵が一緒に寝起きし、比較的自由も利いた。ニケ年の兵営生活中これ程睦しい楽しい生活はなかった。

 物静かな闇中に砲兵の観測塔がそびえているのが見える。夜間演習が終って、闇の雨の夜更を帰る途中、遥か彼方の平康里の兵合から、消燈ラツバの音が伝わってくる。

 幾百の将兵が汗と血みどろの一日の演習を終って、今やつと吾に返り、遠き故郷の父母を恋い、妹を思う姿が頭に浮かび涙がでる。

消燈のラッパはなりて闇中に
ふる里遠く父母の顕ちくる

 反対側の北方向には福鶏機関庫の燈が胱胱として、まだ貨車の入替が終らぬらしく、時たまポーッと汽笛がなり、シュッ シュッ シュッ シュッ と蒸汽の出る音が静かな中を聞えてくる。

平康里の思い出

出動 (満州事変)

 昭和六年九月十九日、午前五時聯隊長近藤清大佐が転ぶようにして営門をくぐった。直ぐ非常ラツバを吹けと。

 西部時間で(内地より三〇分遅れる)午前五時まだ明けやらぬ闇中にけたたましく非常ラッパが鳴り響いた。続いて隣の歩兵七十八聯隊でも非常ラッパが鳴っている。

 週番下士官は命令受領に馳足で聯隊本部に飛んでいった。

 もう兵隊達は寝はしない、気の早い奴は私物を整理したり、いざという時何を持ってゆくべきか胸算値する者もいた。

 やがて中隊長が冬軍服に重そうな軍刀を佩って来た。日頃はおもちやのようなギラギラ光るサーベル(指揮刀)しか見ていない私は皮のケースに鞘に包まれた軍刀という物を初めて見た。

 今年六月満州万宝山で鮮系農民が中国軍に虐殺された酬いとして鮮内では十名の中国人が殺され、京城に於ても中国人は帰国を準備し、官憲は不穏の空気に鑑み中国人の保護に当っていた矢先のことである。

 兵達はがやがや騒ぎたてているが何事か一向にわからない。

 午前六時中隊長は全員を石廊下に集めた。

 初年兵は入隊してまだ三ケ月、二年兵の半数は初年兵教育に残さねばならぬ、二年兵の半数が出動する。

 出動者の名前が厳かに読み上げられた。舎前整列は午前八時である、二時間の中に戦争に出て征く準備をせねばならぬ。

 満州には大連から長春まで、奉天から安東まで南満州鉄道の処どころに僅かの守備隊が配置されているに過ぎない。

 内地からの部隊は召集して船に乗せ、どんなに急っても三日四日先でないと使いものにならぬ。

 いざという時すぐ役にたつのは朝鮮軍だけである。朝鮮軍こそ国防の第一線部隊であった、日頃から非常ラッパが鳴ってすぐ飛んで出る訓練がしてあった。

 こんな時二年兵の手となり足となり走り廻るのが初年兵であった。こんなこともあって朝鮮軍では軍紀は厳しかったけれども、日頃二年兵は初年兵をとても大切にしておった。

 満州に出勤の命令は下達された。これからの二時間が戦争である。

 衛戌地内で起きた非常事件の時は平服のまま、衛兵所から非常用の弾薬を受取り十分したら営門を出てゆく。

 然し外地の戦争に持ってゆくものは全部新しいものである、日頃の銃剣は刃がつぶしてあって戦争の間にあわぬ、刃のついた銃剣は兵器庫にある。羽根という三重県出身の漁師のせがれが五十挺の銃剣を一人で担いで帰ったのには皆んなびっくりした。銃の負皮は新しい牛皮で硬くて仲々取りつかない。

 弾薬は営外の林のなかにある弾薬庫に取りにゆく、飯盒に詰める三食分の飯は炊事に取りに走る、軍服、軍靴、襦袢袴下は被服庫にある、乾麺包、罐詰、塊塩は糧抹庫にある。

 二階から馳けて降りるもの、営庭を走るもの、全員が馳け足である。乾麺のブリキ罐が切り開かれると初年兵が一斎に手を突き込む、よくも切口で怪我をしなかったものだと思う。

 軍服も軍靴も号数が違うのであるが、持ち帰った箱を開いて驚いた。この靴は何某とちやんと名札がついていた。戦時日本の用意周到さが伺われる。

 羅紗の冬外套を背嚢の外側につけるのであるが新品とあって中々とりつけにくい。

 背嚢に詰め込むものは、一週間分の食糧米、副食の罐詰、三食分の乾麺、食塩、被服は着替用の禰袢袴下、パンツ、靴下、被服修理具、背嚢の外につけるものは外套、円匙、飯合、鉄帽。

                                                   

 以上で大体三十ニキロになる。

  • 肩に雑嚢、水筒、兵器手入具、
  • 腰に前蓋(実包六十発)後釜(実包六十発) 銃剣、
  • 別に擲弾筒手は擲弾筒(五キロ) 手留弾数発、
  • 足には重い軍靴をケートルで巻きつける。

 戦国時代の鎧胄で身動き出来ぬ将兵もいたと聞いた、現在の完全武装もそれに劣らぬものであろう。

 午前八時竹野少尉以下五十名の小隊が中隊舎前に整列、別れの杯を交して聯隊本部へ走っていった。

 営庭で聯隊長の訓示があり、軍旗に別れを告げ、午前九時営門を後に竜山駅に向った。

 続いて午前十時歩兵第七十八聯隊が抜刀隊長を先頭に、ラッパの音も勇ましく営門を出で、続いて砲、工、輜重の諸兵が竜山駅に向った。

                                        

 時に満州に於ては昨十八日満州事変が勃発し、奉天に於ては支那東北軍の北大営を攻略、長春に於ては南嶺を攻撃中であった。

 日本軍は僅かに鉄道守備隊のみにして、関東軍指令官本庄繁大将の朝鮮軍出勤要請頻りなれども、政府は事の拡大を怖れて極力これが阻止にかかった。朝鮮司令官大将林洗十郎は全般の情勢を客観して、朝鮮軍を独断鴨緑江を越え満州に進出せしめた。

 かみ天上よりおとがめがあれば直ちに割腹お詫申し上げる決意にて白装束に着替え一室に黙座、待機していたが、ついに中央からは何の電報も来なかった。

 明けて昭和七年三月一日満州建国成るを待って、朝鮮軍は三月九日竜山駅に凱旋した。

非常点呼 (逃亡、探索)

下士官抱いて寝りゃ兵隊臭い
伍長動務は生意気で
粋な上等兵にゃ金がない
可愛新兵さんにゃ暇がない

 二年兵になると半教が上等兵になる、その内から伍長勤務上等兵(兵長)が二三名でる。

 七中隊では 飯田、青木、芳山の三人がいた。

 伍長勤務になると週番につくようになる、誰でもというわけにはいかぬ、飯田は武技が得意で専らその方の教導をしていた、芳山には軽機関銃教育があった、彼が週番についたかどうか憶えていない。

 私は武技は下手であったが、中学校を出ていたのでよく週番につかされた。週番は中隊長に代って主として内務の仕事をしていた。

 中隊長、中隊附将校、上級下士官は家庭があり営外勤務で、これらの退庁後は週番下士官が全責在を持った。

 丁度私が週番についていた時、夜十時消燈ラッパが鳴って一時間、兵がやつと眠りについたばかり、前の六中隊は夜間演習から帰って床につく仕度をしている時であった。

 石廊下の不寝番が「上等兵殿、開城がおりません」と言ってきた。この初年兵一番頭が悪いので私の係となっていた。私の横で寝かせていた。週番で私のいない隙に出ていったらしい。

 裏の洗濯場、便所を探したがいない、はては逃亡かな?

 大隊の週番士官に報告、聯隊の週番士官は直ぐ非常点呼を命じた、点呼ラッパが闇をついて鳴り響いた、ラッパは三回鳴る。聯隊本部前で一回、第一第二大隊の間で一回、第二第三大隊の前で一回。

 聯隊本部前で葬常ラッパが鳴ると各中隊一斉に電燈がついて点呼をする。兵は一体何が起ったのだろうかと次の命令をまっている。

 各中隊とも「人員点呼異状ありません」と言う報告であった。

 週番士官は竹野少尉だったと思う。中隊長がお見えになるまでに、兵営の全便所、倉庫、くらがりを探させろと、自殺か隠遁か首釣り自殺かを探すのである。手分して探したがどこにも見当らない。

 そのうちに中隊長と、二人の私服憲兵が来て、彼の所持品特に手紙を全部点検し捜索計劃をたてた。京城から東西南北に通ずる道路の要所要所に捜索隊を派遣し、市内は憲兵隊で心当りを捜索すると、朝方になって「異状ありません」と引揚げてくる。仲には朝の剣術に出ることがいらぬと畑のまくわ瓜を失敬して食べ朝飯が済んだ頃になって帰って来る組もあった。

 流石憲兵で午前十時頃料理屋に登楼しているのを捕えて来た。

 彼は一週間の営倉(牢獄)に付された。

 七中隊の青木のお陰で寝入り端をたたき起された、青木いう奴えらい奴じや、聯隊全員たたき起して点呼した、お前のお陰で剣術をすることがいらなんだ、まくわ瓜がうまかった。翌日様々なことが耳に入った。

兵営生活数え歌 (歌詞)

一つとせ 人のいやがる軍隊に 志願で出て来る馬鹿もおる
   再役するよな馬鹿もおる スイスイ

ニつとせ ふた親見すてて出たからにや この身は国家に
   捧げ銃 及ばずながらもつとめます スイスイ

三つとせ 皆さん御承知の軍隊は 酒と女が禁物で
   軍紀風紀を守る為 スイスイ

四つとせ 夜は衛兵寝ずの番 明くれば一日捧げ銃
   帰れば忽ち不寝番 スイスイ

五つとせ 何時かわからぬ不時点呼 ねむたいさかりを
   起されて 人員検べて報告す スイスイ

六つとせ 無理なことを上官は 命令なんぞと名をつけて
   服従せよとは生意気な スイスイ

七つとせ 七日七日の土曜日は 清潔整頓武器手入
   検査検査で苦労する スイスイ

八つとせ やがて営門出る時にや 遊び過した五分間
   帰ればたちまち重営倉 スイスイ

九つとせ ここの規則はよく出来た 寝るも起きるも皆ラッパ
   衛兵 会報 食事まで スイスイ

十つとせ 十日十日の俸給も 僅か一円八十銭
   あんぱん代にも足りはせぬ スイスイ

十一とせ  一番偉いのが聯隊長 往きも帰りも馬の上
   衛兵整列頭ら右 スイスイ

十二とせ 二番によいのが将校さん 行きも帰りも捧げ銃
   帰れば奥さん持ちやげつつ スイスイ

十三とせ さてもつまらぬ吾々は たまの外出割当てで
   可愛初年兵は泣くばかり スイスイ

十四とせ 士官下士官准士官 中で張り切る班長さん
   たかが軍曹でありながら スイスイ

十五とせ 伍長勤務は生意気で いきな上等兵にや金がない
   可愛新兵さんにや暇がない スイスイ

十六とせ 六十余州のその中で 選び出された吾々を
   ピンタとるとは何事ぞ スイスイ

十七とせ ひやかし上手な班長さん それを見習う上等兵
   女泣かせの二つ星 スイスイ

十八とせ ようよう満期もあと三日 おやじ喜べ嫁さがせ
   帰ればこうして ああもして スイスイ

十九とせ 苦労しました二年間 明くれば喜しや除隊式
   軍旗に最後の 捧げ銃 スイスイ

二十とせ とうとう出ました営門を 愛し戦友さらさらば
   心は残る七九の兵舎 スイスイ

 この歌の一つ一つが自分の通って来たみち、

 思えば涙、懐しい限りである。

満期除隊 (昭和七年十一月三十日)

 昭和七年十一月三十日が満期除隊である。

 除隊まであと百日になった。飯を一日三食三百杯、大根漬物一食二切ニセンチ、一日六センチ、十日で六十センテ、百日でコウコゥ六米食えぱ除隊だ。などと指折算値するのが兵隊の楽しみであった。

見渡す限り白妙の 氷冷たき漢江河
野山は枯れて村々の ポプラの梢に嵐吹く
時しも霜月二十九日 待ちに待ちたる除隊式
聯隊長の訓示あり 軍旗に最後の捧げ銃
三輪の里にと来て見れば 涙流して恋人が
海山遠く北鮮に 貴男を慕うアカシヤの
花のあること忘れずに お忘わ給うな何時までも
目にはかすかに玉の露 かくて別れし恋乙女
汽笛一声漢江河 心は残る三輪の里

三輪の里

あとがき (青木国良)

 私は今七十二歳に垂んとしている。ここに出てくる風景事情は半世紀前の兵の日の追憶でありこれを以って今の韓国を推し測ることは無理である。

 現代の韓国は日本内地と同じく草葺の家屋から色とりどりのヵラフルな洋式建築に替りつつある。

 一台のタイプが収容する活字は知れたものである、と言っ(かなでは意味の通じないものもあるので適当な当て字を以って間に合わせた、飯盒を飯合とし餘を余とし首吊を首釣とせるが如し。

 初中終増減する当用漢字常用漢字にはこだわらないことにした、ましてやかな使いに至っては全く自我流であることを断っておく。

昭和五十六年十一月末日

青木国良

本籍
広島県三次市南畑敷町
現住所
大坂府富田林市神山町一

戦争について

昨今平和な日本において、戦争といえばもう遠い昔の話になってしまいましたが、かつては日本も含め世界的に様々な戦争が日々繰り広げられていました。

侵略するもの、侵略されれるもの、多くの尊い命が失われました。

そして戦争の終焉は核の脅威による悲惨な結果となりました。広島、そして長崎。日本は戦争における唯一の被爆国でもあります。

個人個人が戦争について考えることはとても大切なことです。そして先人がどのような生活を送っていたのか、どのような考えをもっていたのか、そうしたことを知るのもまた大切なことであると考えます。

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