« 通信班長として | メイン | 軍旗祭 »

安城の渡し

安城の渡し (昭和七年秋季演習)

 昭和七年秋季演習中に安城の渡しを夜間渡河した。

 夕方から大休止で腹を詰めて、午後十時南端の都賀里を出発した。

 今は一面の田んほであるが、実は大湿地である。今夜の演習に限り、単独行動は一切禁じられた。前の兵から絶対離れてはならぬと言われた。

 この平野には蜘蛛の巣のように川が入り乱れ、然もその川は底知れぬどぶ川である。道を迷うとどこを行っているか、さっばりわからなくなる。

 内地と違って十月初旬とはいえ霜おく寒い夜であった。今夜は月のない真っくら闇である。恐ろしい程薄気味悪い、いかにも人の命を吸い込みそうな川にさしかかった。

 暗夜の中に高い一本橋が懸って為り、それを渡った、馬は通せないので河の中を渡らせる。やっと渡ったと思った時、馬がぬかるみに足をとられて動けなくなった、荷物をおろして皆で馬を引きあげた。

 そうこうしている内にとり残されてしまった。このぬかるみを通過するのに五時間かかった。

 明けがた前方がうすうす見える頃大きな川を渡った。川向うに小高い丘があり、大きな石碑が建っている。

安城の渡し

一 渡るにやすき安城の 名は徒のものなるか
    敵の射ちだす弾丸に 波は怒りて水さわぎ
二 沸きたちかえる紅の 血潮の外に道もなく
    先峰たりし我が軍の 苦戦の程ぞ知られたる
三 この時一人のラツパ手は 取り佩く太刀の束の間の
    進め進めと吹きしきる 進軍ラツバの勇ましさ
四 その音忽ちうち絶えて 再びかすかに聞えたり
    打ち絶えたりしは何故ぞ かすかに鳴りしは何故ぞ
五 弾丸のんどを貫けど 熱血気管にあふるれど
    ラツバは放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
六 魂とその身は砕けても  霊魂天をかけめぐり
    なお敵軍を破るらん あな勇ましのラッパ手よ

 眼下に安城の渡しが一望にして見える小高い丘に大きな石碑が建って為り、碑面には「陸軍喇叭手 木口小平碑」と刻まれている、又この丘には松永中隊が全減に遭った記念碑も建っている。

 日清戦争といえば中国で戦争したのだろうと思いがちであるが、明治二十七年春、南鮮全州に東学党が蜂起反乱し、朝鮮政府では手に負えなくなった。予て属国していた清国がこれを平定手中に納めようと明治二十七年六月九日 清国軍を牙山に上陸せしめた。

 朝鮮は独立国である、中国の勢力が南鮮に及ぶとたまったものではないと、日本は六月十二日、先遣隊を仁川に上陸せしめた。

 六月二十五白昼間偵察した情報では安城川は徒渉出来ると見て、夜陰に乗じて渡河攻撃を開始したところ、予期せざる満潮にあい、松永中隊全員河中にぬかるみ、丘上から一斎射撃をうけ中隊は全減した。

 その節の木口小平ラツパ手の奮戦ぶりである。

 日清戦争の緒戦に当り安城の渡しは軍歌として全国を風靡した。

 日清戦争は明時二十七年七月二十五日豊島沖海戦を経て八月一日宣戦布告と進展した。

 豊島はすぐ仁川の沖合である。

www.orochi.org

Powered by
Movable Type 3.34