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出勤

出動 (満州事変)

 昭和六年九月十九日、午前五時聯隊長近藤清大佐が転ぶようにして営門をくぐった。直ぐ非常ラツバを吹けと。

 西部時間で(内地より三〇分遅れる)午前五時まだ明けやらぬ闇中にけたたましく非常ラッパが鳴り響いた。続いて隣の歩兵七十八聯隊でも非常ラッパが鳴っている。

 週番下士官は命令受領に馳足で聯隊本部に飛んでいった。

 もう兵隊達は寝はしない、気の早い奴は私物を整理したり、いざという時何を持ってゆくべきか胸算値する者もいた。

 やがて中隊長が冬軍服に重そうな軍刀を佩って来た。日頃はおもちやのようなギラギラ光るサーベル(指揮刀)しか見ていない私は皮のケースに鞘に包まれた軍刀という物を初めて見た。

 今年六月満州万宝山で鮮系農民が中国軍に虐殺された酬いとして鮮内では十名の中国人が殺され、京城に於ても中国人は帰国を準備し、官憲は不穏の空気に鑑み中国人の保護に当っていた矢先のことである。

 兵達はがやがや騒ぎたてているが何事か一向にわからない。

 午前六時中隊長は全員を石廊下に集めた。

 初年兵は入隊してまだ三ケ月、二年兵の半数は初年兵教育に残さねばならぬ、二年兵の半数が出動する。

 出動者の名前が厳かに読み上げられた。舎前整列は午前八時である、二時間の中に戦争に出て征く準備をせねばならぬ。

 満州には大連から長春まで、奉天から安東まで南満州鉄道の処どころに僅かの守備隊が配置されているに過ぎない。

 内地からの部隊は召集して船に乗せ、どんなに急っても三日四日先でないと使いものにならぬ。

 いざという時すぐ役にたつのは朝鮮軍だけである。朝鮮軍こそ国防の第一線部隊であった、日頃から非常ラッパが鳴ってすぐ飛んで出る訓練がしてあった。

 こんな時二年兵の手となり足となり走り廻るのが初年兵であった。こんなこともあって朝鮮軍では軍紀は厳しかったけれども、日頃二年兵は初年兵をとても大切にしておった。

 満州に出勤の命令は下達された。これからの二時間が戦争である。

 衛戌地内で起きた非常事件の時は平服のまま、衛兵所から非常用の弾薬を受取り十分したら営門を出てゆく。

 然し外地の戦争に持ってゆくものは全部新しいものである、日頃の銃剣は刃がつぶしてあって戦争の間にあわぬ、刃のついた銃剣は兵器庫にある。羽根という三重県出身の漁師のせがれが五十挺の銃剣を一人で担いで帰ったのには皆んなびっくりした。銃の負皮は新しい牛皮で硬くて仲々取りつかない。

 弾薬は営外の林のなかにある弾薬庫に取りにゆく、飯盒に詰める三食分の飯は炊事に取りに走る、軍服、軍靴、襦袢袴下は被服庫にある、乾麺包、罐詰、塊塩は糧抹庫にある。

 二階から馳けて降りるもの、営庭を走るもの、全員が馳け足である。乾麺のブリキ罐が切り開かれると初年兵が一斎に手を突き込む、よくも切口で怪我をしなかったものだと思う。

 軍服も軍靴も号数が違うのであるが、持ち帰った箱を開いて驚いた。この靴は何某とちやんと名札がついていた。戦時日本の用意周到さが伺われる。

 羅紗の冬外套を背嚢の外側につけるのであるが新品とあって中々とりつけにくい。

 背嚢に詰め込むものは、一週間分の食糧米、副食の罐詰、三食分の乾麺、食塩、被服は着替用の禰袢袴下、パンツ、靴下、被服修理具、背嚢の外につけるものは外套、円匙、飯合、鉄帽。

                                                   

 以上で大体三十ニキロになる。

  • 肩に雑嚢、水筒、兵器手入具、
  • 腰に前蓋(実包六十発)後釜(実包六十発) 銃剣、
  • 別に擲弾筒手は擲弾筒(五キロ) 手留弾数発、
  • 足には重い軍靴をケートルで巻きつける。

 戦国時代の鎧胄で身動き出来ぬ将兵もいたと聞いた、現在の完全武装もそれに劣らぬものであろう。

 午前八時竹野少尉以下五十名の小隊が中隊舎前に整列、別れの杯を交して聯隊本部へ走っていった。

 営庭で聯隊長の訓示があり、軍旗に別れを告げ、午前九時営門を後に竜山駅に向った。

 続いて午前十時歩兵第七十八聯隊が抜刀隊長を先頭に、ラッパの音も勇ましく営門を出で、続いて砲、工、輜重の諸兵が竜山駅に向った。

                                        

 時に満州に於ては昨十八日満州事変が勃発し、奉天に於ては支那東北軍の北大営を攻略、長春に於ては南嶺を攻撃中であった。

 日本軍は僅かに鉄道守備隊のみにして、関東軍指令官本庄繁大将の朝鮮軍出勤要請頻りなれども、政府は事の拡大を怖れて極力これが阻止にかかった。朝鮮司令官大将林洗十郎は全般の情勢を客観して、朝鮮軍を独断鴨緑江を越え満州に進出せしめた。

 かみ天上よりおとがめがあれば直ちに割腹お詫申し上げる決意にて白装束に着替え一室に黙座、待機していたが、ついに中央からは何の電報も来なかった。

 明けて昭和七年三月一日満州建国成るを待って、朝鮮軍は三月九日竜山駅に凱旋した。

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